GEOのオンラインクーポンでCDレンタル半額というのがよくあるんだが。 いつもいつもブルーハーツのベストを借りようとこのキャンペーンやってるときに足を運ぶんだけど、僕と同じように「ブルーハーツを借りたいんだけど、そんなファンってわけじゃないし半額のときまで待って借りればいいや」と思っているやつはゴロゴロいるようで、毎回無いんだな。 そんで、「あー、ブルーハーツねーや。」とか言って「せっかく来たんだし、半額なんだしブルーハーツじゃなくてもなんか借りてくか」っていう流れに持っていかせるのがこの「CDレンタル半額」の戦略なんだろうか。 今日なんかは入店するまでまったく考えに無かったミスチルと木村カエラと福山を借りて帰ってしまった。前も前の前もこんなようなことがあったもんなぁ。 もしもブルーハーツが1回目で借りれたなら借りなかったであろう物ばかりだ。 これがきっと戦略なんだな。みごとにはまってるぜ。カエラかわいいぜ。
もうずいぶん前のことだけど、嬉しかったことがあった。 僕は実験でしょっちゅう何か間違えるので僕の実技の教育係をしている研究補助の立松さんはいつも僕から目が放さない状態なんだけど。 その日はとてもミスが多くて夜遅くまでかかって、立松さんは帰る時間になったので帰っていたんだが、その帰り際に 「もう、一人で残していくのが心配で心配で。じゃあ黒羽さんあとは(僕の面倒)よろしくお願いします。もうわが子を置いていくような気分だわ。心配でならない」 と言っていたのだ。 僕を自分の子供のように思ってくれるなら、と。 立松さんの子供的役柄になってあげたい。
たけしのTVタックルを見ていたら、大竹まことが割りと面白いことを言っていた。 愛国心について、愛するという行為もその対象となる国というのも抽象的だということだ。 言われてみれば愛国心と漢字で書くと「愛」も「国」も「心」もみな抽象的な言葉に思える。 番組には外国人と日本人のタレントが出ていて、戦後の教育で日本は愛国心を失った。 ってういか、日本を愛する心は持っているが日本のどこを愛すればいいのかを見つけられない。 みたいなまとめで終わっていた。 そこで僕は自分の愛国心について考えたが、やっぱりそういう気持ちは自分には無いと思った。 無いというか、正確に言うと、他の外国人にくらべて確実に薄いと思う。 例えば今は僕はオーケストラをやっているけど「フィンランディア」とか「我が祖国」とか「1812年」とか愛国心むき出しの作品があるじゃないか。 でも日本の文学も音楽やその他の芸能も何とか心中みたいな男女の色情とか、家族愛の話とか、そんなのが多いような気がする。 外国人というのは何であんなに祖国に対する気持ちが熱いのだろうと考えたら、やっぱりどこの国でも陸に国境がある事が多いのがその理由だろうという結論に達した。ありがちな結論だが。 歴史の中に常に「侵略」という言葉が付きまとった。 「愛」には「守る」ことが必要なんではないだろうか? 守らなくても愛することはできるんだろうけど、きっと守っていないと次第に愛している意識がなくなってくるんじゃないだろうか? その結果、僕のような特に愛している意識のない国民が生まれるんだ。 うん、そうだ。きっとそうだ。 「守る」という刺激が入ることで「愛」を再認識できるんだ。 しかし、守るためには危機にさらされなければならないわけで、愛する大切なものを危険な目にあわせないと愛している意識を持続できないというのはなんとも皮肉な話だ。 そこで、日本人のような島国の人間が愛国心とどう向き合っていけばよいかということについて考えた。 結果を先に言うと、それは「日本人は無理に日本を愛さなくていい。」ということになった。 その考えに至ったプロセスを述べよう。 世界を視野に考えれば陸に国境がある国が大多数だ。 大多数の考え方がグローバルスタンダードになるのは仕方のないこと。 そうなると強い愛国心があるのが当たり前で、そういう強い愛があることこそがその国の国民としての道理であり正義。 という風になってしまう。 僕は日本がどうも、このグローバルスタンダードについていけない事で余分な焦りを感じているんではないかと思う。 世界のみんなは祖国を愛しているのに僕らはそんなに愛してないではないか。これは問題だ、もっと日本を愛さなきゃ、でも実際そんなに意識できないなぁ、やっぱ僕らはダメな国民なんだろうか、戦後の教育が間違っていたんだろうか。 みたいな焦燥感に駆られるわけだ。きっと。 だが、安心したまえ日本人。 僕が思うに、国を愛するということは、その国に染まっていればそれでいいのだ。その国らしければそれでいいのだ。 日本は四方を海に囲まれた地理的条件ゆえに歴史的に「守る」意識の無い風土が培われてきたのだ。 もしも日本を本当に愛するのなら、なぜその独自の風土に誇りを持たないのか。 愛国心こそが正しい国民の姿であるとする、ある意味で勝手なグローバルスタンダードになぜ立ち向かわない。 だから無理して愛そうとしなくていいのだ。それが日本人の姿なのだ。 本当に日本を愛するなら、その日本スタイルを貫け。 という結論に至った。
こないだ一号と話したロボットの話をしよう。 20万も30万もするようなマッサージチェアってあるじゃないか。 でもあれはどうも気持ちよくなくて、やっぱり人間の手がいいねという話を一号としていて、一号が 「人型ロボットが介護に応用できるように開発されてるけど、まず先にマッサージに応用すればいいのに」 と言ったので 僕は「将棋を相手してくれるロボットがいいなぁ」 それから、トランプもやってくれのがいいなぁ、オセロもいいなぁ とか言ったことからなかなか面白いロボット談義に発展した。 そんなにいっぱいのロボットが一体一体いたら大変だから、ロボットは本体を一台だけ買って、あとは自分がやってほしい機能をソフトとしてインストールできるようにしよう。ということになった。 だからマッサージしてほしかったらロボット本体とマッサージソフトを買えばいいのだ。 料理してほしかったら料理ソフトを。 女性の一人暮らしには警備ソフトを。 引越しを転々として育った人には幼なじみソフト。 ちょっとそれとってソフト。 この味どうかしら?ソフト。 時にはしくじる事もあり、ちょっぴり悲しいときもあるソフト。 えーっと、それからそれから、考え出すとキリがない。 もしもマッサージソフトが要らない人がいたら指が柔らかくないロボ本体でいいし、マッサージソフトが要る人は指が柔らかいロボを買わなきゃいけなくなるしその辺はどうしよう?という話になって。 ロボ本体はみんな最初は指が硬くて、マッサージソフトを「柔らかフィンガー付属」で販売すればいいんじゃないかということになった。 そうなると、夜のお相手のアダルトソフトにはいろんな柔らかボディーパーツを付属しなきゃいけなくなってかなり高価格になりそうだ。 僕の場合はとりあえず、マッサージソフトと金縛り救助ソフトがあればかなり快適な暮らしになるかな。 みんなはどんなソフトが欲しいかな?
こないだヤスノリが是非ともメトロノームを使ってさらってほしいところで使ってなかったので「そこはメトロノームを使おう」と言って思い出したことがあるんだ。 ずっと前から思ってたことでさ。 俺はメトロノームを使ってさらうことの大切さがまだわかっていなかった頃に、先輩に「メトロノームを使ってね」って言われながらも、よく先輩の目を盗んでメトロノームを使わずにさらったもんだ。 それだからオケと合わない事に気付いてメトロノームの大切さがわかった。 俺はこのことがとてもよかったと思っている。 メトロノームを使って練習する理由が「メトロノームを使って」と言われるからだけじゃ、その必要性の本質を感じれていなくてどこか儀式信仰的になるじゃないか。 「何故かよくわからないけど練習にはメトロノーム」みたいな。 それじゃあ何か主体性に欠ける練習になるだろう。 だからまだメトロノームの大切さがよくわからない人には是非ともメトロノームを使わず練習してみて欲しい。普通の先輩とは逆のことを言っているようだが。 オケでやっていくなら結局いつか気付くはずだから。 例えば、おぼっちゃま育ちで火遊びもしたことが無く火の熱さを知らない人が火の恐さなんてわかる分けない。 そんな人が自分の子供に「火は危険だから火遊びはするな」なんて言うと思うとぞっとする。 メトロノームに限らず、なんでもそうだが 「言われるからやる」のは間違わないかもしれないが、自分でその必要性がわかっていないので儀式信仰的になってしまうのだ。 そしてそれはとてもつまらないんだ。 とはいえ俺も4年生になってしまった手前どうしても「メトロノームを使ってね」と立場的に言わざるを得ないので、そう言われたら使っては欲しいが。 その必要性がわからないなら先輩の目を盗んでこっそりメトロノームを止めてしまえ。 そして自分で必要性を感じるのがいい。 ・・・と、ここまで言っておいていろんな人たちに「勝手なことを書くな」と怒られたらやなので まぁでも言われたことをかたくなに守るのもいいんじゃないかなぁ。 とか、最後に弱気になってみる。
反応全体が「正しい」と言われるためには正しく入力がされて、それに応じた適切な出力がされることが必須だ。 そのシグナルとそれに対するレスポンスというやつは分子レベルからマクロなレベルまでさまざまあるわけだが。 今日はそのお話だ。 みんなの周りに「空気の読めない奴」っていないだろうか? これはまさに入力と出力で言う入力が正常じゃない例だ。 この空気が読めないのはけっこうよくいるんだが、 少ないけど別のタイプの異常もある。 「空気を読む」という入力自体は正常なんだけどそれに応じた適切な対応ができない、つまり出力ができないタイプだ。 「空気を読む」という表現に対して、出力なので「空気を書く」とでもしよう。 これはとてももったいない。 せっかく空気を読んで正しく状況判断ができてるのに、「えっ!?そこでそんなこと今言っちゃう?」っていう痛さ。たまにない? 例えば、あまり親しくない人同士が数人集まって居合わせなきゃならないシチュエーションとかで。 もちろん会話は何の盛り上がりも見せていない状況。 そんな時に「なんか盛り上がんないねー」って言っちゃう奴とか。 だから今それを何とかしようとみんな必死に話題を探してたじゃん! それ言ってもうたかんがな! もうそれでみんなテンションがた落ち・・・。みたいなね。 ちゃんと空気読んだなら盛り上がるように何とか頑張るのが正常なんだよね、それ言っちゃったらダメなんだよ~。 読めてはいるのに書けない。 もったいないなぁ。 そして、さっきの例えばの話はやっちまったの俺なんだな。 みなさんは「空気を書く」しっかりやりましょう。
いつもチェロには似たような大仕事がある。 今回90thのドボ8は1楽章冒頭と4楽章冒頭に。 前回89thのチャイ4は2楽章冒頭とその最後のほうに。 88thはまぁいいとして。 87thは第九の4楽章冒頭に。 86thはブラ2の2楽章冒頭に。 85thはカルメンの前奏曲で一曲とおしてずっと。 なんだかなぁ。
まきのから、何が楽しくてオケをやっているのかブログに書いてよって言われたので書くことにしてみた。 実はあまり考えてこなかったことなので、いい機会だった。 説明しやすいところから入ると、まず名大オケは自分にとって新しい家族のような感じがしていて、そこがいい。 自分で言うのもおこがましい話ではあるが、まぁ一応いろんな人に好かれてはいると思うので、俺がふらっと現れると表情が明るくなる人が何人もいて。 なんていうか、人生の豊かさに勝ち負けがあるとしたら、その判断基準のひとつに、自分がいることで何人の人の表情を明るくできたかってのもあると思うの。 まぁ、これはいろいろ価値観はあるだろうけど。 たくさんの人に好かれながら生きていけるのは、豊かな人生に必須だと思うんだ。 人生とかいって話のスケールがでかくなったけど。 まぁ一日一日が人生の一部ですから。 オケはそれを与えてくれた。と信じたい。 それと、チェロを弾くこと自体の話をすると、今は今までやってこなかったいろいろな技に挑戦していて、それが短期的な練習で身につくものが多くて、その一つ一つをやっていくことが楽しいです。 昔は弦楽器を演奏する者にとって永遠の課題となるような基礎的なことが多かったので一つのことをある程度習得したと言える状態になるまでにそれこそ1回の定演の期間丸ごとかかったりしていたんだけど。 今はそういうのとはちょっと違った、短期的な練習で身につくような技をいろいろ取り入れていて楽しいです。 なんかちょっと説明しにくい(>_<) あとは、やっぱり日常を楽しめている自分が好きだから。 日常を楽しめてる人って心の芯から綺麗でなんかわかるじゃん? 内側から澄んでて輝いてる感じ。 反対に日常を楽しめていない人は心が曇っててどんよりしてる。 街中を歩いていても顕著な場合だとその人の日常生活とか全然知らない人でもなんとなくわかることない? そういう意味ではオケをやっている自分は日常を楽しめていて綺麗な心でいられる。気がする。 これもなんか感覚的なことだから説明しにくい。 そんなこんなでオケを楽しんでいるんだろうなぁ、きっと俺は。
高校で数学なんかをやってるときによく思ったことだ。 数学って、自分の中の「感覚」でしかなかったことを言葉と数式を使って他人にも共有できる「理論」にすることだって。 もちろんそれだけではないんだけど。 その感覚って言うのは子供の頃に生きてる中で身につける感覚であったりすることがよくあって。 具体的にいい例が思いつかないけど、 例えば 「エッチ、スケベ、ワンタッチ」っていう遊びとか。 なんか左の手のひらを広げて、右の人指し指で左の手の指の先と指の付け根を自分の名前の文字数分だけなぞって止めて、同じように今度は親指で「エッチ、スケベ、ワンタッチ」とか言いながらなぞって人差し指とぶつかったところでエッチなのかスケベなのかワンタッチなのか決まるの(?) にしてもワンタッチって何だ?他に、「ジジ、ババ、殿、ケツ」とか「天国、地獄、大地獄」とかあった気がする。 子供の頃に、いろんな友達の名前でやったりするんだけど、いちいち指を使うのが面倒で、文字数だけでパッとわからないかなぁ?って思って。 「エッチ、スケベ、ワンタッチ」なら3文字なんだから3の倍数のたびに1周期が終わるから、どーのこーの・・・っていうのを、その時は「倍数」とか「周期」とかいう言葉を知らなかったけど感覚的にそういうようなことは考えた。 自然数nを3で割ったときの余りを anとする数列 とすると子供の頃に思ったあの感じを、「感じ」でしかなかったものを言葉や式で表現できていて個人的にはとても気持ちいい。 数学ってそういう自分の感覚を、言葉や式を使って理論にするんだ。 さらに言うと、もっと高等な数学になると、扱うものが抽象的で自分の中に感覚としてすらない物を言葉や式を使って表して、ルールを守りながら変形させていって意味を理解できる形まで変えて、その形が自分に無かった新しい感覚を与えてくれたりすることもある。 数学はすげーなー。 あぁ、今読み返したらなんてわかりにくい例だろう。。。 もっといっぱいいい例はあるんだけど思いだせん(>_<)
♪たびだーつ そらにー であいとわかれー ってアンダーグラフの歌あるじゃん? 最近、立ち寄った店なんかでよく耳にする女性ボーカルの曲でその曲にクソ似てる曲があって。 ずっと誰の歌か気になっていたんだが。 さっき調べてわかったぜ!! その似てるのは BoAの新曲Everlastingってやつだ。 視聴してみたらやっぱり似すぎて笑えた。 BoAって昔にくらべて大人っぽくなったなぁ (;´Д`)ハアハア 大学に入ってオケに入って、初めて楽譜の音楽の表し方を知って思ったことがあるんだけど。 それは音楽ってバリエーション絞られるなぁってこと。 メロディーをリズム(音価の組み合わせ)と音程の2要素で成り立つものとすると、リズムは例えば八分、付点八分、四分、付点四分、三連符とかまぁいろいろあるけど、有限な物の組み合わせとその順列なわけで、この時点である程度数が絞られる。 そんで音程はというとドレミファソラシとそれらのシャープ・フラットといろいろあるけど。 メロディーとして音楽的になるためにはどれでも自由に離散的にとるわけにはいかず、ある程度微分可能な流れの中で組み合わせなければならないし、調の中であり得る音程は絞られる。 絶対音感が無い人がほとんどなので調が違うだけのものは同じと考えるとさらにバリエーションは狭まる。 まぁ、いくら有限なものの順列といっても小節数がたくさんあれば莫大なバリエーションができるだろうが、数小節だけで考えればまったく同じメロディーになることは多くなるだろう。 だからさ、音楽ってかぶりやすいよね多分。 毎回、定演の曲やってると「これ、あの曲のあれのパクリじゃん」って思うことあるし。 自分がやった曲でパッと思い出せる限りではブラ2の4楽章とマラ1の1楽章とかね。 ほんの一部だけど似てるとこがある。 あとはファランドールとDAPUMPの歌(曲名知らん)とかね。 なーんまーんかーいも いえる Love You~♪ ってやつ。 他にもいっぱいあるのに思いだせん(>_<)こいうの気になる。 それにしてもBoAは似すぎだ。
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